イタリアと私

 

私は今イタリア中部の街ペルージャにいる。もともと中国語選択で、イタリア語は今年の4月に大学の授業で週一で聴講していただけある。なぜ私はイタリアにきてしまったのであろうか。そもそも私の中には何か、欧米ばかりが憧れの対象になったりすることに対する反感があった。天邪鬼な性格なのである。言うことが二転三転することがある。それでも自分では貫いているものがあると勝手に思っている。自我が強く頑固なのだ。そんな私がなぜ今回イタリアに1ヶ月の間留学することにしたのだろうか。自分でもはっきりとした理由はないように思われる。イタリア語そのものに対する漠然とした興味はあるが話せるようになるまで勉強を続けられる自信はあまりない。

私は口でものを言うことが苦手だ。思っていることをうまく表現できず誤解が生じることはしばしばある。しかし思考することに関しては才能があると思っている。物事を深く考え、分析する。頑固な私は小さい頃から一人で世の中の事象について思いついたものから考えるようになり、自己流の考えを作り、ますます頑固になっていった。四六時中仲間とつるむのも労力を要する。一人で思考してチャージする時間が時折必要なのである。さもないと思ってもない言動をしてしまう。非社交的で、頑固。インドや中国が好きだと言い張り、日本のヨーロッパに対する憧れは空虚だと勝手に決めつけた。しかしよく考えてみれば、自分も西洋的価値観・文化に憧れて英語の勉強をしてきたし、日本の集団主義という風潮に歯向かうツールとして利用してきたはずである。大学に入ってからは様々な分野の学問に触れ、アジアやいわゆる周縁に置かれてきた人々、文化に対する興味が噴出した。それらの魅力に取り憑かれていく中、日本で蔓延しているヨーロッパに対する憧れに反感を覚えていった。インドや中国が私の最大の興味範囲であるが、その一方で、ある小説の影響でイタリアの建築物や宗教歴史との関わりにも興味を持つようになった。私の中には指摘されれば否定の仕様のない矛盾がいくつもあるのだ。そんな自分を自覚しつつも頑固で認めようとしない。

そんな自分を思い切って変えようと無意識が働きかけて私をイタリアに導いてくれたのかも知れない。この機会を無駄にはしたくない。むしろイタリア語ではなく、自分の中の固く、強く、折れることのない芯を柔らかく曲がり自分の非はすぐに認める芯に変えることがこの滞在の潜在的な目的なのではないかと思う。

イタリアに来て数日考えずに過ごしてしまったことへの反省から、昨晩ペルージャの夜道を一人歩きながら思ったことを綴った。

2018年8月5日