人は孤独を恐れる。

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人は孤独を恐れ、どこかに自分の居場所を見つけようとする。人は皆に置いていかれまいとこぞって集まり、一様の行動を取る。だがそんな孤独感を埋めるためだけに群れた人々はいずれ気づく、その居場所はなんで空虚で無意味なものなのだろうと。だがそれでも人はそこにいることをやめられない。他にいきようもない。群れた人の層は無限に広がる宇宙のように暗く、果てしなく、重い。それを掻き分けて抜け出すことは不可能に思える。

しかし、必ずしもそうではないかもしれない。

ある者は流星の如く孤独を恐れず群れからどんどん離れていく。ある者は衛星の如く群れの近くにいるが交わらない。ある者は彗星の如く群れに近づいたり離れたりする。

そうして自分が何者であるかを見つけた者は、孤独を恐れることこそが空虚であることに気づく。孤独を恐れないことは自分を認めることである。自分の存在が確固たるものであることを認識することである。人はこの時自分が紛れもない唯一の自分であることを自覚する。

近代社会では人は孤独だといわれる。孤独を恐れ無限に増殖する仮想空間でのやり取りでその隙を埋める人々。自分で考えることをやめ、愚かな指導者の元に群れる人々。皆と同じ空間、時間、感覚、思想を共有することで安心感を覚えようとする人々。孤独を恐れることをやめた人は孤独から解放される。孤独という言葉そのものが意味を有さなくなる。そうした時、人は新たな問題に直面する。"紛れもない私"とは一体何のために存在しているのか。どこから来たのか。どこへ行くべきなのか。そうした問いかけに答えなんてものはないのだろうか。私はきっと答えを見つけることなく死に、夜空にぽつんと浮かぶ、今にもかき消えそうな星の一つとなるのだろう。そしてその星を見た者がまた同じことを考え、死んでいく。

それでも私は孤独を恐れない。恐れるつもりはない。自己を規定するのは自分であり、他者ではない。例えその生死が意味のないものであろうと空虚さに飲み込まれたくはない。例え見つからないとわかっていても答えを探し続けながら生きていきたい。

この感情はなんだろう

この感情はなんだろう

胸に広がる空虚感

生きていることとはどういうことなのか

どうせ死ぬのなら何をしても同じなのではないか、そう思うこともある

そのくせ何か成し遂げた時には表現しようのない喜びが胸に広がる

生きていることが報われたような気がする

この矛盾はどこから来るのだろう。そもそもそう呼んでいいのかどうかも定かでない

一人で旅をするとは自分自身と向き合うことである。会話をする人がいない。故郷と自分を結びつけるものがない。私は私でなくなる。自由になる。

古い心から解放された身体は新たな心を受け入れる

しかしその新たな心もすぐに古くなり、例の空虚感が襲って来る。"旅なんかしても無駄だ、どうせ死ぬのだからいつもの場所で過ごせ"

私は抗う。その心を入れ替えようと再び旅に出る。その営為に生きている実感を感じる

ひとところに留まっていると空虚感で胸が詰まってしまう。すかすかなもので胸が詰まるなんておかしな話である

ごちゃごちゃ言って、結局生きることの理由は見つからないままである

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イタリアと私

 

私は今イタリア中部の街ペルージャにいる。もともと中国語選択で、イタリア語は今年の4月に大学の授業で週一で聴講していただけある。なぜ私はイタリアにきてしまったのであろうか。そもそも私の中には何か、欧米ばかりが憧れの対象になったりすることに対する反感があった。天邪鬼な性格なのである。言うことが二転三転することがある。それでも自分では貫いているものがあると勝手に思っている。自我が強く頑固なのだ。そんな私がなぜ今回イタリアに1ヶ月の間留学することにしたのだろうか。自分でもはっきりとした理由はないように思われる。イタリア語そのものに対する漠然とした興味はあるが話せるようになるまで勉強を続けられる自信はあまりない。

私は口でものを言うことが苦手だ。思っていることをうまく表現できず誤解が生じることはしばしばある。しかし思考することに関しては才能があると思っている。物事を深く考え、分析する。頑固な私は小さい頃から一人で世の中の事象について思いついたものから考えるようになり、自己流の考えを作り、ますます頑固になっていった。四六時中仲間とつるむのも労力を要する。一人で思考してチャージする時間が時折必要なのである。さもないと思ってもない言動をしてしまう。非社交的で、頑固。インドや中国が好きだと言い張り、日本のヨーロッパに対する憧れは空虚だと勝手に決めつけた。しかしよく考えてみれば、自分も西洋的価値観・文化に憧れて英語の勉強をしてきたし、日本の集団主義という風潮に歯向かうツールとして利用してきたはずである。大学に入ってからは様々な分野の学問に触れ、アジアやいわゆる周縁に置かれてきた人々、文化に対する興味が噴出した。それらの魅力に取り憑かれていく中、日本で蔓延しているヨーロッパに対する憧れに反感を覚えていった。インドや中国が私の最大の興味範囲であるが、その一方で、ある小説の影響でイタリアの建築物や宗教歴史との関わりにも興味を持つようになった。私の中には指摘されれば否定の仕様のない矛盾がいくつもあるのだ。そんな自分を自覚しつつも頑固で認めようとしない。

そんな自分を思い切って変えようと無意識が働きかけて私をイタリアに導いてくれたのかも知れない。この機会を無駄にはしたくない。むしろイタリア語ではなく、自分の中の固く、強く、折れることのない芯を柔らかく曲がり自分の非はすぐに認める芯に変えることがこの滞在の潜在的な目的なのではないかと思う。

イタリアに来て数日考えずに過ごしてしまったことへの反省から、昨晩ペルージャの夜道を一人歩きながら思ったことを綴った。

2018年8月5日

インド、腹痛、野犬

ご存知の通りインドに行く外国人は十中八九お腹を壊す。もはやイニシエーシ
ョンと言ってもいい。それを経験してから初めてインドに“入った”とみなされるのである。私もその事実は重重承知していたし、可能な限り避けようと用心していた。水は絶対にペットボトルのミネラルウォーターを購入し、その購入に際しても蓋が開いた形跡がないか確認してから金を払った。稀に空のボトルに水道水を入れて売る輩がいるらしい、と聞いていたからだ。デリーにいた友人と離れて完全に自分達だけで行動するようになってからはそのことを常に頭に入れていたつもりであった。

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混み合うプラットフォーム

 ジャイプール駅に午後10時頃に着くと、そこにはぎょっとする光景が広がっていた。まず、電車を降りるのも一苦労なぐらいに混んでいる列車だったが、プラットフォームもこの時間にも関わらず混んでいた。山のように積まれた段ボールの荷物、敷物をひいて寝る家族、地べたに直に座り込んで待つ人々。しかもとても騒々しく、停車した列車のドアに向かって我先にと群がるインド人達を見て当初は恐怖すら感じていた。駅を一歩出た瞬間、というより駅を出る前から待ってましたと言わんばかりに声をかけてくるインド人がいるが、ホテルはあらかじめとってあるといって無視。この時は警戒心が高くなっていて常に荷物から目を離さなかった。ホテルは駅から歩いて10分ほどと書いてあったため手元の地図を頼りに客引きやリキシャの運転手を全員無視してスタスタと歩いていった。当然夜だったため暗く、人がいない通りを通らなければならないこともあり、ハラハラしながらなんとかホテルまでたどり着いた。思ったよりも時間がかかり、着く頃には私たちはすでにクタクタであったが、奮発して一泊2千円のホテルをとった甲斐があってかとても綺麗な部屋だった。これは飯も期待できると踏んで意気揚々と屋上のレストランへ向かった。街ではなかなか見かけない欧米系の客が多く集まっており、このホテルの格の高さが伺われた。メニューに目を通すと、安い!自立した旅1日目だったのもあり、私たちは祝杯として豪勢に食べることにした。出された食べ物も、デリーのショッピングモールで食べたものよりずっと豪華で味も最高によかった。ここで油断してしまったのだった。私はつい調子に乗ってモヒートを、相方はスムージーを頼み乾杯した。これもやはりうまかった。この時私は完全に忘れていたのだった、氷を抜くよう頼むことを。結果は火を見るよりも明らか、一晩中起きてはトイレに行き、起きてはトイレに行き、とまともに寝れなかった。私の方が重症だったことからモヒートに大量に入っていた氷が原因だろうと推測した。生水の氷だったのだろう。

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豪華なレストラン

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原因と思われるモヒート


 翌朝、全く体調が悪い中、インドの病はインドの薬で治せとも言うように、薬を購入すれば多少良くなるのではないかと期待してGoogle Mapで近所の薬局を探した。幸い近くにあったため、相方を部屋に残して買いに行った。店について店員に英語でお腹の調子が悪いとお腹を指しながら伝えるが、彼は困った顔をしてヒンディー語で何か言ってきた。当然私にはわかるはずもなく、薬局でも英語が通じなかったかと落胆し、必死に身振り手振りで “Loose stomach! “と連呼した。するとやっとわかってくれたようで奥から薬を持ってきたが、ヒンディー語で服用法を説明し始めた!せめて何錠とればいいのか聞こうとして”two?”とか”three?”とか聞いてみたが毎回一様に首を横に振る(インドでは首を横に振ると日本で縦に振るのと同じ意味をなす)ため諦めた。部屋に戻って薬の名前をiPhoneに打ち込んで服用法を調べた。さらに私には秘密兵器もあった。ポカリスウェットの粉である。かさばらないため、万が一このような状況に陥ったとき脱水症にならぬよう日本から持ってきたのであった。薬を服用すると幾分気持ち的には楽になった。翌日の早朝にはこの街を出ると決めていたことから観光だけはしたいと思い無理やりリキシャに乗って有名な旧天文台へと向かった。しかしジメジメした天気の中気分が悪くなってきて頭が朦朧とする中、関節痛も感じ始めた。天文台もさほど楽しめるものではなく、私たちはしばらく大通りを歩いてからホテルに戻って仮眠をとった。炎天下かなりの距離を歩いたため疲れで余計に体調が悪くなり、頭痛でなかなか寝付くこともできず、このままここで死んでしまうのだろうか、なんて考えたりして急に日本が恋しくなってきた。今すぐ瞬間移動して家に帰って快適な環境でゆっくり休みたい。弱気になってしまった。

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体調が優れない相方

 目を開けると数時間経っていた。気分はだいぶよくなり、頭痛も関節痛もほとんどなくなっていた。しかしお腹は全く空かなかったためひたすらポカリスウェットを作って飲み続けた。

 翌朝は朝の5時にはホテルを出た。フロントもやっていないのではないかと思っていたが、親切にも(?)フロントのソファでおじさんが寝ていて私たちが近づくと起きて対応してくれた。安心してホテルを出るとまたハプニングが起こった。野犬である。デリーでは近年犬狩りが進んでいるらしくほとんど見かけなかったが、他の都市ではまだまだそこらへんにゴロツキのようにくすんだ色をした犬がうろついていた。人通りがほとんどない通りにあるホテルを一歩出ると目の前に2、3匹の犬が寝ていた。これは別に普通の光景なので通り過ぎたが、彼らから10メートルほど離れたかと思えた時、急に1匹がのそっと起き上がると私たちとは反対の方角にいた犬に向かって吠えながら走り出した。縄張り争いのようであった。これはまずい雰囲気だなと思い、犬の方を見ながら恐る恐る遠ざかっていたところ、もう1匹がむくっと起き上がると、こっちを見ながら牙を向いて唸りはじめた。“噛まれたら狂犬病”という文字が私の脳裏に浮かんだ。と同時にそいつは私たちの方に向かって吠えながら走ってきた。私は相方に向かって“走れ!”と一言いうと荷物を抱えて一目散に走り出した。小柄な相方は私の視界から消えてしまったが気にしている余裕はなく、いざとなったらその犬をカバンで殴り殺そうかとも覚悟した。なんとか角を曲がると急に車の通りが多くなり、私は振り返りもせずすぐさまリキシャを呼び止め二人で飛び乗った。息を整えてからようやく振り返ったがもはや犬の姿は見えなくなっていた。

 旅はまだまだ続く。私は苦い思いをしたジャイプールを後に古都アグラ行きの列車に乗り込んだ。

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ゴミを漁る、神聖な牛

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同じくゴミを漁る野犬


 

形にしたい。

形にしたい。

言葉は難しい。

その一瞬一瞬のうちに我々の手からするりと感情は抜け落ちてしまう。思いついたと途端に書かなければ、形にしなければ。

でもいくら書いても足りない。人間ってそうできてる。もどかしいよ。全て書こうと思ってももう忘れている。取り戻せない。

 

デジタルは人の容量を広げたのだろうか。そうではない気がする。その飛び飛びの間に抜け落ちてしまった感情を、我々はアナログで取り戻すことはできない。もう消えてしまっているのだから。

 

もっと言葉を大切にしたい。

インド、鉄道。

2017年9月上旬、私はインドの首都デリーからジャイプールという街へ行くため、鉄道に乗っていた。インドの列車は決して速くはない。地図で自分の移動速度を見ていたが100キロ弱であった。格子窓で吹き抜け状となっており、エアコンがない車両は地獄だと言われていたが、夕方に乗ったためむしろ風が気持ちよかった。およそ5時間の間、垂直の背もたれの椅子に座ってぼーっとしていなければならず結構な苦痛であった。しかしいくつかエンターテイメントがあった。まず、彼らインド人は隙間があれば入ってくる。リキシャに乗っている時も、空港で列に並んでいるときも感じたが、とにかく隙間に入ろうとする。これは我々日本人からしたらギョッとすることだが、長椅子に座っていた私と私が無理やりインドに連れてきた友人の間に知らないインド人が平然と座ってきたのだ。指定席のはずなのだが...。しかもその動きは流動的で、座ったかと思えば別のとこへ行ったり、はたまた3人席に6人ほどでひしひしと座ったりと往来が激しかった。もう一つ、気づいたことがある。インド人はおしゃべりが好きだ。先ほど行ったように勝手にいろんな席に座る彼らは、座った先にいた人とあたかも最初から友人であったかのように親しく話し出すのだ。元々座っていた人もすっとその人のために場所を空ける。目があったら気まずいから顔を下に向けているか広告を見ているかスマホを見ていなければならない日本の電車では考えられない光景である。しかもおしゃべりは二人の間で完結せず、周囲にいる人まで口を挟んでおしゃべりを始めるのだ。そんな彼らを見ながら自分もあんな風に話したいな、と思っていたらやっぱりきた!ニコニコしながらおじさんが近づいてきて、私の隣のスペースにゆっくりと腰掛けると”Hello”と声をかけてきた!嬉しくなって私も”Hi”と挨拶を返すと“Where are you from”と聞かれ”Japan”と返した。が、何回言っても通じず、彼は私が言ったことを理解できなかったようだった(私の発音が悪い、とかそういうことではなく)。Japanという単語すら知らなかったのか、仕方なく他のことを話そうと試みたが、彼はどうやら英語を話せないようで、少し残念そうに微笑むとしばらくして去っていった。私も少し残念であった。しかし、それと同時に大陸の温かさが胸にじんわりと広がっていくのを私は感じていた。

インドでは英語が準公用語である、と高校で習っていた私は現実との違いを実感し、ますますこの国について知りたいという気持ちが強くなっていった。インドにいた知人の話によれば英語が通じるのは首都デリーで、離れるにつれだんだん通じなくなっていく、ということであった。というより、首都デリーから出た列車内でもう通じなくなっていたのである。この国の計り知れなさ、奥深さを身を以て知ったのであった。この時、私達の旅はまだ二日目であった。窓の外に流れる、静かに広がる大地を眺めながら私はこれからの旅路に思いを馳せた。 

 

https://www.instagram.com/p/BYuS7wWBSLN/

Journey day2 part2 Delhi→Jaipur

 

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“活着”

“活着”

 

これが私のブログで最初の映画のレビューとなるわけだが、まだ慣れないところがあるのはご容赦いただきたい。(下にyoutubeリンクあり)

 

まずこの映画の原題である“活着”、私の拙い中国語力で訳すとすれば『活きる』、とでも訳せば良いだろうか。(ググってみたところ邦題は実際“活きる”だった!)‘94年公開の张艺谋による作品である。原作はその前年に余华によって発表された同名の小説で、舞台は1940年代から始まる。日本軍の描写が出ないことと、共産党と国民党の抗争のシーンがあることからおそらく日中戦争以後であろう。登場人物は主人公の福贵、奥さんの家珍、娘の凤霞、息子の有庆。小説は読んでいないが、ストーリーが大幅に変更されているとのことだが、面白い(と単純な一言では言えないが)。

 

 

映画を見たい方は先に見たほうがいいかも(ネタバレ注意)

主人公の福贵は地主で仕事をせずとも悠々自適の生活を送り、毎晩ギャンブルに入り浸っていた。家珍はそんな彼を見限って実家に帰る。同時に彼はギャンブルで破産し一文無しに、屋敷は龙二に借金の返済として奪われ、全てを失った福贵は途方にくれる中、道端で残った家財道具を売って生活をすることになった。ある日息子有庆の誕生と共に家珍が改心した福贵のもとに帰って来る。元々歌がうまかった福贵は影絵芝居士として生計を立て始めた。ある日、芝居の出張中に国共内戦に巻き込まれ、国民党と共産党の両方に順に仕えさせられることとなる。無事家に帰る頃には実母は亡くなり、凤霞は口がきけなくなっていた。その頃国民党が台湾にまで引き下がり、共産党の支配が本格化。屋敷を明け渡した龙二は反革命派として射殺、福贵はもし自分があの屋敷にまだいたら、と震える。次第に革命色が強まるにつれて街は共産党一色となり、家族は革命という荒波に揉まれながらもうまくそれに適応しながら生きていく…。

 

 

直球の感想としては本当に良い作品であった。禿げた遊び人の頃の主人公福贵は、いつしか観客の心を捉えて離さず、力強く、それでいて物腰が柔らかい人物像へと変化を遂げて行く。地主から一文無し、国民党軍から解放軍へ、共産主義へと大きな変化も経験する。話はこの福贵の家族を支柱に、1960年代ごろまでが描かれる。富贵は不幸の連続に見舞われる人生を体験する。家を失い、地位を失い、母を失い、娘は声を失い、息子を失った。それでも家族は“活き”なければならない。福贵は共産党の体制にうまく適応し、悲しみや喜びの中で活き続けた。

 

凤霞は結婚相手を見つけ、不幸に見舞われた人生の中にやっと幸せを見つけることができた。“凤霞从小就命苦”、“娶凤霞那天多叫点人,热闹热闹,也让凤霞高兴高兴。”娘を思う母の気持ちだ。町をあげて祝ってもらった凤霞は両親に別れに告げる時、涙する。このシーンは、結婚という幸せと同時にその後に訪れる不幸を予見していたのかもしれない。

あるシーンでは、息子を轢き殺した張本人であり、福贵の芝居の仲間であり、共に戦線を生き抜いた友人でもある春生に対し、家珍が“春生,你记着,你还欠我们家一条命呢!你得好好儿活着!”と呼びかける場面があった。彼はちょうど走資派(反革命派)として町長の立場から引き下ろされ、奥さんが自殺したと当局に告げられたばかりだった。(本当に自殺だったのかは不明)妻の遺体も見ることができず、活きる希望を失い“福贵,我不想活了“、福贵の元に来て最後のお詫びとして貯めてきた口座を渡そうとしたのだった。そこで今まで彼を恨んでいた家珍が彼にかけた言葉であった。この福贵一家は様々な不幸を経験しながらも、人情を失うことは無く、前を向き続けていくのである。

と、自分の中でいくつか印象的でセリフが比較的聞き取りやすかったシーンを紹介してみたがダラダラと続きそうなのでもうここら辺でやめにして思ったことを言おうと思う。

 

 この変革という時代の狭間に生まれ、生きた家族の話を通してこの映画は何を私たちに伝えようとしているのだろうか。軽く観ると毛沢東共産主義を批判しているかのように感じる人もいるだろう。確かに毛沢東による大躍進政策の綻びが時折見られるが、この映画はそこで留まっていない。この変革や、様々な不幸にもうまく適応し、力強く“活き”残っていこう、という意志を福贵からは感じられる。さらにこの映画は、単なる一家族の不幸を描くことで観客の感動を誘おうとしていたわけでもないだろう。そうではなく、彼ら庶民を通してこの、多くの人たちにとって様々な犠牲を強いられた、悲しい一つの時代を描こうとしているのではないか、そんな気がした。

 

 最後のシーンで、ヒヨコを見ながらヒヨコが大きくなったら何になるの、と聞く孫馒头に福贵は息子有庆を思い出し、一瞬答えに詰まるものの“那个时候啊,日子就越来越好。”とこれからの時代に希望を抱いている。凤霞とその婿が描いた中庭の毛沢東の絵は霞みかけていた。劉少奇、鄧小平による再建の時代が訪れようとしている時であった。映画は劇中を通してずっと流れていた悲しい音楽とともにその幕を閉じる。

  

一つの時代が終わっていく中で、福贵のような庶民はどのように地に根を植えて活きていったのか。これからもっとこの変革の時代について勉強していこうと思った。

 


To Live 1994, Full movie with English subtitle